“自由に遊ぶ”とは

保育参観で、年長の子どもたちと保護者が一緒になって、輪ゴム鉄砲を作ってもらいました。子どもたちだけだとなかなか作れないものを、保護者と一緒に作ってもうことで活動の幅が広がります。保育参観後、子どもたちは鉄砲を何度も作り直し精度を上げていき、繰り返し遊ぶことで技術力も格段に向上していきました。

皆が鉄砲作りに興味を持って活動を継続している中、S君は鉄砲作りに興味を示さず、黙々と輪ゴム鉄砲の的の改良に取り組んでいました。彼は鉄砲に興味を持たない代わりに、保育参観では先生が作って準備していた“的”に興味を持ち、どう改良すればうまく倒れるかとか、先生が作っていた的では100点、200点だけだったのを、もっと小さな的を作って50000点などと書き込み、周りの子どもたちも小さな的を狙って遊びは盛り上がっていきました。

この活動の流れの中で、保育参観で先生が意図していた“何度も輪ゴム鉄砲を作って、ゴムの伸び具合や、狙ったものを上手く充てるように改良する”といった本来の“ねらい”からは外れているのですが、S君の動きは皆の遊びの中に上手く合致して、遊びをより面白いものへと変化させる原動力となっていました。

保育の中で“主体的な活動を通して意欲を高める”という言葉をよく使用するのですが、私は、本来の活動内容と全く関係のないことで好き勝手なことをしていて主体性が育まれるとは思っていません。子どもの主体性というものも、先生が提案した一連の活動の範囲の中で、先生の“ねらい”とは異質な活動であっても、その活動をより深めるものが“主体性を育む”という観点では大切なことだと思っています。S君の動きは、先生本来の“ねらい”からはそれた“まと”に興味いってしまったのですが、保育の“ねらい”の延長上にある遊びをより活性化させるのに大いに役立っています。

このようなS君の発想がどこから生まれてくるのかは分かりません。日常の保育の中で先生だけが主役になり、先生の言ったことを忠実に守るという保育環境では、S君の発想は生まれてこないでしょう。また、例えS君のように思い付いたとしても、それを表現するかどうかわかりません。日常の先生と子どもとのやり取りの中で、“自分の思っていることを出して行動してもよい”という信頼関係があってS君のような行動が出て来るのだと思っています。“自由に遊ぶ”ということが誤解されて、活動とは関係ないことをしていても許されるのが“自由”だという意見もあるのですが、私は、活動と関連した範囲の中で自分の思いを表出できるという雰囲気が“自由”の根幹だと思っています。